2014年天津市高校翻译大赛
参赛作品登记表
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日译汉参赛译文:
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漢詩と和歌の本質的な相違
漢詩は、社会に対して自己主張することをもって当然とする詩です。主体と客体との区別・対比が初めから明確に存在している詩です。
しかし、日本の歌は、これに較べた場合、多くの点で驚くほど異質な詩でした。それは第一に極めて短い形式です。和歌の最も基本的な形式は、五つの部分に分かれた全体でわずか三十一シラブルの「短歌」であり、十六世紀以降はさらに短いわずか十七シラブルの「俳句」が、和歌の世界に加わり、二つの形式とも、現在に至ってなお大流行しているのです。
短いということは、必然的に、和歌の形で具体的な論述をすることは極めて困難だということを意味します。和歌の表現は、暗示と極端に少ない量の情報によって成り立っています。そこに存在するのは、具体的な事物や事件の精細な描写ではなく、それらと出会った時の、作者の感動の簡潔な表現です。具体的な事実への言及は、感動の表現にとって必要な範囲で最小限に行われるだけです。それ以上細かな描写に立ち入った場合は、よほど巧みな作者の作品でない限り、低俗で散文的なものとして排斥されるでしょう。
このような事実から明らかなように、和歌では主体が自己主張し、社会や環境に対して具体的に関与してゆく姿が歌われることは、もし仮にあったとしても、極めて少ないのです。主語さえも省略されるのが普通のことです。従って、主体と客体は、「対比」ではなく、逆に「融合」という様相においてとらえられることが、和歌では多いのです。
総じて言えば、漢詩が作者の「自己主張」を当然の条件とするのに対し、和歌はむしろ、作者の「自己消去」をごく自然に招き寄せる詩だとさえ言えるのです。「自己消去」、しかしそれによって詩人は何を求めるのか?詩人は自己を主張する代わりに、例えば彼を取り巻く自然環境の中に進んで融け込んでゆき、そのことによって「自我」を超越した「自然」と一体化しようとするのだと言えるでしょう。また、古典和歌の世界では、詩人たちの属する社会自体、極めて強固な秩序によって統制され、美意識も趣味もみな共通の基盤の上に成り立っていましたから、「自我」の自己主張は、当然極めて困難だったのです。

