
成都市中心部から車で約1時間半ほど離れた大邑県安仁鎮に、民間投資額最多、建設規模・展示面積最大、収蔵品数最多の民間博物館、建川博物館集落がある。集落の敷地面積は約33ヘクタール、建築面積は10万平米に及び、収蔵品は800万点余りに達する。「抗日戦争」、「民俗」、「革命時代」、「震災救助」の四大テーマを中心に30もの博物館が立ち並び、巨大な博物館群を形成している。
四大テーマのうち最も人気が高く、観光客が最も多いのが「抗日戦争」をテーマにした博物館だ。「中流砥柱館」、「正面戦場館」、「フライング・タイガース奇兵館」、「不屈戦争捕虜館」、「川軍抗日戦争館」、「抗日戦争老兵手印広場」、「中国抗日壮士群塑広場」といった展示館と屋外展示エリアがあり、展示品の90%が日本から集められたものだ。さらに、日本の犯罪行為を紹介する「日本中国侵略犯罪行為館」は日本の著名な建築家、磯崎新氏によって設計されている。展示品から建築物に至るまで、両国有識者のあの歴史への反省の念が込められている。
なぜ民間博物館がこれほど大規模な抗日戦争文化財の収蔵をしているのか。その背景にはどんな物語が秘められているのか。中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争勝利70周年を迎える今年、人民網記者は建川博物館集落を訪問、館長にそうした疑問をぶつけた。
「平和のために、戦争を収蔵する」という設立理念
「平和のために、戦争を収蔵する。未来のために、教訓を収蔵する。安寧のために災難を収蔵する。伝承のために、民俗を収蔵する」その理念の中には館長の「平和への思い」が貫かれていた。軍人家庭に生まれた樊建川館長は、父に語り継がれた戦争の記憶やその人生に触発されて「戦争を収集する」ことへの興味を強め、十数年にわたり、戦争の記録を留めることが館長の人生における重要な一部となった。
戦争の遺留品を集めることはそう容易なことではないが、抗日戦争をテーマにした博物館館内の展示品の構成からは抗日戦争時代に漂う空気やエネルギーを全面的に表現しようとする館長の並大抵でない努力と思いが感じられた。この中には、中国共産党が指揮する軍と民衆が、一致団結して8年にわたって抗日戦争を戦い抜いた歴史を紹介した「中流砥柱館」、国民政府の戦績を紹介した「正面戦場館」、飢えに耐えながら果敢に戦った俘虜の不屈の精神と悲劇を紹介した「不屈戦争捕虜館」、抗日戦争時代に中国を支援した米軍やクレア・リー・シェンノート将校とフライング・タイガーの伝説の経歴を紹介した「フライング・タイガー奇兵館」、後方から勇敢に戦場の最前線へと飛び込んだ四川人民抗日戦争史を紹介した「川軍抗日戦争館」、日本軍の中国での大罪を明らかにした「日本中国侵略犯罪行為館」があり、この他屋外に「抗日戦争老兵手印広場」と「中国抗日壮士群塑広場」が設けられている。
70年という歳月が過ぎ、戦火が消え去った今、悲惨な戦争を経験し見届けた一枚一枚の肩章やボロボロに擦り切れた軍服、機関銃、兵士が使った水筒といった戦争文化財は静かに館内に眠り、人々に戦争の残酷さを語りかけ、平和な暮らしの尊さを訴え、まさに平和のために、戦争が収集されている。
生活感のある数々の収蔵品

民間で使用されていた戦争の遺留品は現代の人々との距離を縮める。博物館には館長が老兵や遺族、退役米兵、ひいては日本の老兵の子孫から長年かけて集めてきた文化財が展示されている。戦争をテーマにした博物館といえば、大きな銃や大砲を想像するが、ここに眠る収蔵品は小物が多く、人々の戦争記録や勝利への願いが込められた生活用具、鹵獲した戦利品など、決して高価なものではないかもしれないが、これらには抗日戦争時代を生きた人々の暮らしの匂いが漂っており、こうした生活用品が展示されていることも建川博物館の大きな特徴の一つだ。
「抗日戦争到底革命成功」と刺繍されたハンカチには、女性たちの勝利への信念と期待が込められ、「鉄血救国抗日戦争到底」や「打倒日本抗日戦争到底」と書かれた陶器は当時の職人の戦争勝利への決意が反映され、「打倒日本」と椅子の背もたれに掘り込まれた四文字から、人々の侵略者に対する憎悪の念までが感じられる。また、日本軍の日記や戦争文化財、写真、メディアの報道などを紹介した資料は、日本軍国主義が発動したこの侵略戦争の残忍さや非人道的な側面を十分に訴えている。
日本の若者に語り継がれなくなった侵略戦争
建川博物館集落に建てられた博物館のうち、2つは外国人によって設計された。1つは米国人が設計したもので、もう1つは日本の著名な建築家、磯崎新氏が設計したものだ。
磯崎氏が設計した「日本中国侵略犯罪行為館」は日本の侵略者が「自らその罪を証明する」場となっており、約1万点にのぼる侵略物証や400枚余りの写真、10点の国家一級文化財が1931年から1945年の侵略の犯罪行為を証明している。
この展示館の設計のために、磯崎氏は6回にわたり成都を訪れその心血を注いだ。樊館長の目には、磯崎氏は中日両国民に苦痛をもたらしたあの歴史をはっきりと認識する知識人の代表として映っている。

1919年生まれの小林寛澄氏は侵略戦争に参戦した人物だが、俘虜となってから反戦同盟の八路軍兵となり、帰国後対中友好の人となって各地で日本の侵略戦争の真相を語った人物だ。館内には小林寛澄の題字と手帳が陳列されていた。20回にわたり訪中して侵略戦争を謝罪した老兵の塩谷保芳氏も、かつて使用した軍服やかばん、ラッパなどを寄贈しており、戦争の記憶を人々に喚起している。樊館長の元にはあの戦争に正しい認識をもつこうした人々によって、日本国内各地から侵略戦争の文化財が集まり、博物館の完成を様々な面から支えているのだ。
樊館長は多くの日本人と交流をもつ中で、直接的あるいは間接的にあの戦争を経験した日本人は、侵略戦争に対して全面的な認識をもち、中国国民に与えた苦痛を反省している人が多いものの、若者に関しては、全面的で正しい認識をもっている人は非常に少ないと語る。戦争への認識が受け継がれていないのだ。
「あの戦争から70年も過ぎたのだから、それをいつまでも引きずることはない」、「日本はあの戦争でアメリカに負けたのであり、中国人に負けたのではない」といった誤った認識をもつ人もいれば、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下など日本の被害だけを記憶に留める人もいる。こうした日本人の戦争への認知は、戦争の全容を知らしめるテーマ博物館を建てたいという館長の思いをさらに掻き立てるとともに、一人でも多くの日本人に自分の博物館に足を運んでもらい、1931年から1945年までの間に日本軍が犯した数々の罪を自らの目で見てもらいたいと切に願うようになった。
「日本中国侵略犯罪行為館」では、中国人の寛容さや慈善の心を世界の人々に感じてもらうため、日本軍が犯した大罪と、戦後中国が日本人俘虜や開拓団を日本に送り返した資料を対比させる形で陳列している。「日本の敗戦後、生き残った兵士や一般の日本人すべてを日本に送り返した。14年間におよぶ殺戮、虐殺、爆撃について何ら清算しなかった。アメリカ人もイスラム人もオーストラリア人も、どの国のどの民族もできなかったことだ。旧ソ連に至っては日本人捕虜をシベリアに送り込み、鉄道や道路を建設させ、最後は皆そこで死に絶えた。賠償を放棄したことはいうまでもなく、中国ほど寛容さをもって敗戦国すべての人々を送り返した民族はない。残念ながらそうした事実も多くの日本人が知らない」と館長は語った。
「あの歴史を正視してこそ、次なるページを捲ることができる」
中日両国は数千年という交流史を有し、「和」こそ主流であり、「戦」はその支流にすぎない。両国は互いに文化の輸出を続け、唐代が日本に与えた影響はもちろんのこと、多くの中国人留学生が日本から医学や科学といった近代的知識を学んだ。抗日戦争を指揮した多くの将軍でさえ、日本で軍事知識を学んでいた。今日樊館長が掲げる「平和のために戦争を収蔵する」という事業は、人々にこの戦争における加害者と被害者を明確にさせ、日本にあの歴史を正視させるためであり、そうしてこそ、中日両国国民は次なる美しい未来へと邁進することができ、日本が中華民族に災難をもたらしたという歴史の一ページは、ようやく次へと捲られるのである。
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