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「この恩は生涯忘れられない」 元残留日本人孤児が語る中国の母

「この恩は生涯忘れられない」 元残留日本人孤児が語る中国の母 人民网日文版
2015-08-02
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导读:70年前、中国国民は抗日戦争の偉大な勝利を勝ち取った。戦争の傷跡が残る中国国民は、その深い恨みを日本国民に向

70年前、中国国民は抗日戦争の偉大な勝利を勝ち取った。戦争の傷跡が残る中国国民は、その深い恨みを日本国民に向けることなく、広い心で数多くの中国残留日本人孤児らを受け入れ、育てた。日本の侵略戦争における孤児たちの物語は、日本の侵略の歴史の生きた証拠であり、そこには中国国民の寛容、善良、愛によりもたらされた感謝の思いが秘められている。

19897月、陳先国は妻と子ども2人を連れて瀋陽から東京に渡り、二田口国博と改名した。二田口氏は中国で生まれた日本人だ。祖国は日本で、故郷は中国。1930年、二田口氏の両親は開拓団として中国東北部を訪れた。その3年後、二田口氏が生まれ、第2次大戦末期、日本軍の勢力衰退に伴って父親は強制徴兵され、日本が降参する前夜に亡くなった。

当時大量の開拓団が帰国を試みたが、船の数に限りがあり、一部開拓団は待つしかなかった。母親と妹の3人で小学校に身を寄せ、寝床もない冷え切った地面の上で過ごした。冬に入ると、衣服も食料も足りず、妹は餓死、母親は凍死し、当時7歳の二田口氏は孤児となった。毎日のように多くの人々が死んでいくのを目の当たりにし、二田口氏は絶望を感じ、自分の命もそう長くはないと思い込んでいた。

しかし、思いがけないことに、母親の死後、すぐにある中国人女性が二田口氏を引き取った。当時二田口氏の体は長期的な飢餓と寒さでとても弱まっていた。「養母は一日も早く私を回復させるため、あらゆる手を尽くし、お金を惜しまず米を買ってきてはお粥にして与えてくれた」と二田口氏は振り返る。当時米は栄養価の最も高い主食とされ、戦時中中国人は食べることも植えることも許されず、日本人だけが食べることができた。数ヶ月間の療養を経て、二田口氏の体は少しずつ回復していった。「裕福ではなかったが、養母は家にある一番いいものを出して与えてくれた」という。

「もし養母が私を引き取ってくれなかったら、今日の取材は実現しない。私の命を救い、養ってくれた養母の恩を感じている」。

新中国の成立後、養母は二田口氏を小学校に入れた。「養母は教育を受けたことがなく、字すら書けなかったが、私の教育にはとても力を入れてくれた」という。養父母の支えの下、1960年、二田口氏は北京鋼鉄学院に合格した。「私の家がある通りに大学まで進学できた子はとても少なかった」。翌年の1961年に養父が他界してからは、家庭の経済状況は一層厳しくなり、二田口氏は退学して仕事をすることを望んだ。しかし、養母は「歯を食いしばって乗り切るんだ」といって大学を卒業することを勧めて聞かなかったという。

1965年、大学を無事卒業した二田口氏は瀋陽鉱山機器工場に就職した。その後1989年に日本に帰国するまでの20年余りの間ここで働いた。

二田口氏は、人生で最も辛い出来事は1975年に養母が心臓病で亡くなったことだと話す。二田口氏の父親の実家は熊本県にあり、2000年に一度墓参りに行ったきり行ったことはないが、1989年に日本に帰国してから、毎年少なくとも一度は養母の墓参りに中国に帰る。「これは命ある限り続けたい。たとえこの身が動かなくなったとしても、子どもたちに私の替わりに養母の墓参りだけはいくよう伝える」。

また、二田口氏は、「安倍政権にはアジア隣国の人々にもたらした侵略戦争の惨さをしっかりと認識してもらい、歴史を鑑に、日本の侵略と植民地統治による被害を受けた各国の人々に誠意を持って謝罪し、中国を含む周辺諸国との良好な関係を保ってもらいたい」と語った。


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开设于1998年,涵盖时政、社会、文化、科技等多领域的日语网站(http://j.people.com.cn/)
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