“候鸟男”
「渡り鳥の男」
一句话概括菅义伟的政治生涯的话,至少在就任官房长官之前可谓是“屡战屡败”吧。
菅の政治家人生を一言で表せば、少なくとも官房長官就任までは、「負け続け」であったと言えるだろう。

秋田农户家庭出身的菅高中毕业后去了东京,半工半读从法政大学毕业。之后从众议院秘书当选横滨市议会会员。两次任期后,参加竞选96年初次小选举制众议院选举,首次当选。
秋田県の農家の出身である菅は、高校卒業後、上京して働きながら法政大学を卒業した。その後、衆院議員秘書を経て横浜市議会議員に当選。市議を2期務めた後、小選挙区制初の96年衆院選に立候補して、国政選挙に初当選した。
菅接受了当时最大派阀桥本派的支持并参与其中。但是桥本龙太郎内阁辞职后的1998年自民党选举上,虽一度当选却反对时任派阀会长小渊惠三,转而支持梶山静六最终失败。
その際、当時の最大派閥である橋本派の支援を受けて同派に入会。しかし、橋本龍太郎内閣総辞職に伴う98年の自民党総裁選では、当選1回ながら派閥会長の小渕恵三に反旗を翻し、元官房長官の梶山静六を担いで敗北した。
于是菅义伟离开了桥本派转而加入了当时被称为政界王子的加藤紘一领导下的加藤派。在加藤试图配合响应在野党提出的对森喜朗内阁不信任决议案的“加藤之乱”上,虽然与加藤采取了行动却惨遭镇压失败。此后加藤派内部分裂后菅义伟又加入了反对加藤派的堀内派,之后又加入了古贺派。
すると菅は、同派を脱会して今度は当時、政界のプリンスと言われた加藤紘一率いる加藤派へと移籍した。加藤が野党の提出した森喜朗内閣不信任決議案に同調しようとした「加藤の乱」では、加藤と行動をともにしたものの、鎮圧されて失敗。その直後に加藤派が分裂すると今度は反加藤の堀内派、その後の古賀派に入会した。
2006年总选举上,菅义伟早早拥护安倍晋三四处张罗。凭此功绩在首次安倍内阁中仅四次当选即就任总务相。这是一直失败的菅义伟的首次胜利,然而仅一年就以辞职结束。
2006年総裁選では、早くから安倍晋三を担いで奔走。その功で、第一次安倍内閣ではわずか当選4回にして総務相に就任した。敗北続きの菅にとって初の勝利だったが、その安倍内閣はわずか1年で総辞職する。
之后的选举中菅义伟拥护麻生太郎而不是古贺派推举的福田康夫,然而还是失败。福田辞职后菅义伟仍然拥护麻生,此次麻生胜选。此后作为党选对委员长代理支持麻生政权,2009年众议院选举惨遭建党以来的滑铁卢,自民党跌成在野党。
その後の総裁選で、今度は古賀派が推す福田康夫ではなく麻生太郎を担ぎ、またしても敗北。福田内閣の総辞職を受けた総裁選では再び担いだ麻生が勝利し、党選対委員長代理などとして麻生政権を支えたが、翌2009年の衆院選では結党以来の大惨敗を喫し、自民党を野党に転落させた。
麻生辞职后菅义伟离开古贺派,拥护河野太郎积极动员,却败给了谷垣祯一。
麻生辞任後の総裁選では古賀派を脱会し、河野太郎を担いで奔走したものの、谷垣禎一に敗北している。
菅义伟将“政权交替”“派阀脱离”作为自己的口号,在自民党内长期被视为异端。前首相森喜朗等资深政客也公然劝其尽早退休,尤其招老派反感。
菅は「世代交代」「脱派閥」を自身のスローガンにしてきたこともあり、自民党内では長く異端児扱いされてきた。元首相の森喜朗らベテラン議員にも早期引退を公然と迫るなどしてきたため、特に古株からは嫌われてきた。
效忠派阀几经易主,菅义伟也不知不觉中就被谑称为“叛徒菅”“候鸟男”了。
所属する派閥を次々と変え、仕える主人を乗り換えてきたことから、いつしか「裏切りの菅」「渡り鳥の男」と陰口を叩かれるようにもなった。


